Wednesday, May 13, 2015

真実への道:ビルマでの戦時の日本人たち

April 28

(速記でメモを取っており写真は編集していません。誤りがあってもどうぞお許しください。-長期にわたる(取材の)日々で、ほとんど(整理する)時間がありません。)

ミャンマーの多くの地域で日本の援助プロジェクトの痕跡が見つかる。昨日、第二次世界大戦中の1945年に日本人たちが犯した大きい戦争犯罪を調査するために、私はKalagong村に向かった。

私の調査結果は後で出版される。その収録内容は、現地に行って私の発見を追跡調査するジャーナリストや研究者のための道標となるものだ。

第1に、車に乗るのは考えものだ。トラックではなく四輪駆動車か何かで行くのがよい。私は2人のガイドを使った。一人はヤンゴンから私が連れてきた人で、もう一人は現地の人だったが、しかしどちらもその道路がどれだけ悪路であるかよく分かっていなかった。そこはホテルから僅か61キロだったのに、着くのに約3時間、戻るのに4時間以上かかった。

(ガイドたちはうまくやった。私は探し始めて約3日で97歳の目撃者を見つけた。一方で、あるジャーナリストは他の村で彼女の居所を突き止めるのに約3年かかったと、私は今日聞いた。

その約10キロの道のりは車にとってあまりに悪路であり、そして、私たちがカタツムリのようにのろのろ走っていくにつれて、私は本当に幸運であると思った。今は雨季でないことと、“もし雨が降ってきたら、電気も無く携帯電話も圏外であるような村が時折出現するだけで、人工的な一切から遠く離れて本当に窮地に陥るだろうこと”、について。

車の運転手は車がダメージを受けることを心配していた。彼は進みたくなかった。私は彼らに強要しなかった。

私は“あなたたちに心理的負担がかからないことだけをやってくれ”と言った。車がダメージを受けたとしてもそれは彼らの責任となるから、その可能性があることを私は彼らに強要しなかった。

これはガイドを難しい立場に追いやる。

私は多くの時間と金を使ってこの村に来たし、ガイドたちは道があれほど粗末であるとは分からなかった。

それでも、彼らは良いガイドであるし誰でも時々失敗するので、私はどんな形であれこのような責任追及や圧力めいたことを言わず、車が進めないなら私たちはそれを受け入れていいとさえ2~3回言った。時間は重要だが常識も重要だ。

私たちはなかなか良いドライブで翌日戻って来ることができた。ガイドたちは急ぎたかったので、運転手を後部座席に座らせメインガイドが運転手になりうまく運転した。

どうにか私たちは村にたどり着いた。

村の年長者が集まってきて、私たちは(インタビューを)始めた。

日が暮れて雲が出てきてすぐに風が強くなってきたので、私たちは村で一夜を過ごす必要があるかもしれないと私は思った。もし雨がとても強かったならそれは唯一の賢い選択だっただろう。

私たちが道を調べるために車に乗り込んだので、村民たちは、私たちは村を出発すべきでない、私たちは村で彼らの家で一夜を明かすべきだ、ときつく警告した。

でも雨はそんなに強くなかったので、私たちは出発できるかもしれないと思った。村民たちは彼らの家で一夜を明かすようきつく警告した。

そこで私たちは、何人かの村民とロープやいくらかの木片を積んだ1台のトラックを借りるよう交渉した。村人たちはそれでうまくいくだろうと考え、幸運を祈ると言った。

朝早く私は一人の村の年長者に、もう一つの村での翌日の研究のためにも私たちと同行するよう頼んだ。彼は同意した。

トラックを使うアイデアがうまくいかないともしその年長者が思ったなら、彼は私たちに同行し続けなかっただろう。彼の名前はMawlawi Aliだ。

Mawlawi Aliは、彼のイスラム学校の研究のためにウルドゥー語を話して書き、更には村の言語であるベンガル語と国の言語であるミャンマー語も話して書く。

私たちの車は満員だった:元々の運転手が現地ガイドとMawlawi Aliとともに後部座席に、メイン国家ガイドが運転し、私は助手席に。

村民は正しかった。彼らはいつも彼らの環境にいる。私たちの車は最初の10フィートで困難に遭遇した。村の中でさえ車で動くことは難しかった、しかしその年長者はいけると考えたので、私の自信は高まった。

彼はモスクで村の発電機を管理している。最高3つの明りを持っている一部の家族のために、細いワイヤーが村中に伸びている。(私がすべての詳細を精査した訳ではない:これは私が村で聞いたことだ。)電灯を使うための料金は1ヵ月につきおよそ3ドルで、このお金でモスクを管理している。3ドルで1家族が1か月電灯を持つことができる。

1945年に、日本人たちはモスクと近くの建物におよそ600人の村民を集めて、銃剣でほぼ彼ら全員を殺害し、村の井戸に彼らの体を投げ入れた。その井戸はまだ彼らの遺体とともにそこにある。

英国人たちも日本人たちに忠実だった村を攻撃した、しかし連合国が戦争に勝った時から今まで、私たち(連合国の人たち)が裁判に取り上げられたことはない。

その日本人たちは私たちと同乗していた村の年長者(Mawlawi Ali)の継母を誘拐した、そして日本人たちが連れて行った他の女性と一緒にその継母はいなくなった。

Aliは彼女がタイにいるという手掛かりを得て1978年と1983年にそこに行ったが、彼女は見つからなかった。

道に関しては、異なる種類の地表があった。赤い泥はぬるぬるしてつるつるしていて進み難かった。私たちが前方に黒い土を見たとき、私はやった!黒い土はベターだと思った。しかしそうではなかった。

私たちは歩く速度より遅く走っていたのに何度も私たちの車はほとんど制御できないほど向きを変えたし、車が危険な路肩を超える場合に備えて私たちの一部は何度も車の外に出て歩いた。誰かが万一の時に運転手を救い出す準備をしていなければならなかった。

私たちはより軽い土壌に来たが、それはただただ悪かった。

私たちは少なくとも20回動けなくなった。ある時は手で押すだけで私たちは脱出し、ある時は私たちはトラックとロープを使わなければならなかった。だがトラックさえ数回動けなくなり、私たちは木片を使った。

地面がとても滑りやすかったので私たちは慎重に歩かなければならなかった。少なくとも1人の男性が転び、他の人を爆笑させた。

私たちは最新の車両特有の問題を抱えていたが、牛車と木の車輪を使う農民たちは-聖書物語からの何かのように-間断なくこつこつやっていた。(牛車が聖書の物語の中に出てくるかどうか私は知らないが、牛車は私にこれらの古い話を思い出させる。)

トラックと車がロープで繋がれたとき、トラックが路肩を超えて滑り落ち車を巻き込むことがあり得た。そのような滑落はあり得なくはなかっただろうが、一部の場所で起こればそれは深刻であっただろうしおそらく致命的であっただろう。

夜が来た。

霧雨は続いていたが、男たちがロープと車を駆使したので、辛うじて見ることができた村に向かって私は暗闇の中で前進した。

私はあそこで光のきらめきを見て、どんな人々がそこで生活しているのか見たくなった。私はカレン(?)村に来た。人々は親しみやすかったが、白人の男が夜に単独で彼らの村を歩いているのに混乱していたように見えた。私の2つの懐中電灯は車の中にあったので、本当にいわば暗闇から私は入っていっていた。

霧雨が降っていたが、若干あった月光が最高潮に達し始めていた。

村の男性は暗闇の下やって来た-200~300メートル後ろからのトラックの灯りが私たちを若干照らしており、村民は若干のランプを持っていた。

その村の男性はタイのそれとほとんど同じようにワイ(合掌してお辞儀)し、彼の挨拶はなんとなくタイのものに聞こえたが、タイ語ではなかった。ビルマ人もワイする、だから彼はきっとビルマ人だった。

私たちは話そうとした、しかし彼が英語の単語を発したかといえば、その気配は無かった。私は彼が何語を話しているかよく分からなかった。それはカレン語かモン語か何かだったかもしれない。

ここからたった数マイル以内で多数の言語が話されている。この国はとても複雑だ。あなたがカレン村を通りモン村に向かって車で移動すれば、ベンガル語に遭遇するし、誰も知らない言語に遭遇する。そこの人々は外見も衣装もまちまちである。

ミャンマーには私が名前も聞いたことが無いような言語や文化がたくさんある。そしてそれらは、またまた私が聞いたことも無いような多くの宗教とともに存在している。カレン族の多くはキリスト教徒だ。

カレン族(?)の男性が話そうとしたとき、私は彼は歓迎していると感じた。そして村の女性は近づいてきて、男性と一緒に微笑んでいた。

もし完全に動けなくなった車とトラックになんとか連絡をつけられたら、私たちは村民に眠るための場所を求めることができて、翌朝私たちの車やトラックを引っ張り出すために何匹かの作業動物やもう1台のトラックを賃借することができた。(現実的なのはもう1台のトラック。)

雲は消え始め、月はより強い光を放っていた。星々は眩いほど輝き、いつもより近くにあるように見えた。

星空の下で私は閃いた。もし日本人たちが彼らの過去をすっかり覆い隠そうとしているならば、彼らはその隠蔽のため良い仕事をしないだろうことを。有名だがはっきりしていない残虐行為が起こった村へまっすぐに、日本人たちは道を敷設している。

その残虐行為は、判例法としてそれを使う軍事法律家の間や、英国の軍事オタクの間でとても有名だが、ほとんどのサークルの中では有名ではない。

道路が敷設されたらこの残虐行為が多くのジャーナリストを引きつけるようになることは疑いない。レポートと地方住民によれば、20個の井戸にはまだおよそ600人の村民の遺骸が残っている。

日本人たちは、この滑りやすい道がこの悲劇(私は以前知らなかった)に繋がっていることを私が見つけるだろうこと、間違いなく私の読者の多くがKalagong村やそこでの大虐殺と約15人の女性の誘拐について聞いたことが無いこと、を知りつつ、良い事も悪い事も醜い事も何であれ話すような私のような人々からの注目を集めようとしている。(その誘拐の犠牲者が12人か13人か15人か報道において若干の差があるが、私は原因を発見したかもしれない。)

Mawlawi Ali(私たちと一緒にいる村の年長者)は、日本人が来年その道路を完成させると言った。

彼はある日本人ジャーナリストが彼らの話を伝え彼らを助ける為に既に来たと私に言った。その日本人ジャーナリストの名前は碓井哲郎で、その年長者は今日私に哲郎氏の奥さんの電話番号を教えてくれ、私は数時間前に彼女に電話をかけたが哲郎氏には繋がらなかった。

明らかに哲郎氏から、村民は日本に彼らの村のためにこの道を敷設するよう頼むというアイデアを引き出した。その前にはそれは小さな獣道に過ぎなかったと、彼らは言った。

私たちはその完成前の日本製の道路の上にいて、日本人は私たちが今日使っていた多数の小さな橋を建設した。

年長者Mawlawi Aliは私に次のように語った。彼が日本大使館宛に道路の要求を提起したが、その後日本は本国を津波に襲われた。津波にもかかわらず、Aliは日本がその6か月後にそのアイデアを承認したと言った。その道路は1年以内に工事完了するに違いないと彼は言った。

ボトムライン:もしあなたがその道路が完成する前に行くなら、四輪駆動車を持っていくべきだ。

日本は自国の歴史を隠蔽していない。日本は墓地への道を建設している。

(編集していない投稿を再度お許しください。-ミャンマーで活動したりネパールをモニターしています。)

Translator: Hideyuki MATSUI  松井秀幸
Donation: 寄付の受付 http://michaelyonjp.blogspot.jp/2015/03/blog-post.html


A Road to Reality: Japanese at War in Burma

(A quick note and some pictures without edit. Please excuse any errors – long days and little time.)

There are signs in many parts of Myanmar describing Japanese aid projects. Yesterday I headed to Kalagong village to investigate a massive war crime committed by Japanese in 1945 during World War II.

My findings will be published later. This entry is road report for journalists or investigators who wish to go there and perhaps audit my findings.

Firstly, do not take a car. Go by truck or better yet something 4-wheel drive. I had two guides. One that I brought from Yangon and another local but neither realized how bad the road is. Though it was only 61 kilometers from my hotel, it took about three hours to get there, and over four hours to get back.

(The guides are paying off. I found a 97 year-old witness after about three days of searching, while I was told today that a journalist searched for three years before locating her today in another village.)

About 10 kilometers of the road is too rough for a car, and as we snailed along, I thought how lucky that this is not rainy season, and that if a rain comes along we are truly in a mess, far from anything other than occasional villages with no electricity, and beyond cell phone coverage.

The driver became worried that he would damage the car. He did not want to go on. I was not pressing them.

I said do only what you feel is comfortable. The car is their responsibility and I would not press them to damage the vehicle.

This puts the guides in a tough spot.

I spent a great deal of time and money to come to this village and they did not realize the road was so poor.

Nevertheless, they are good guides and everyone slips up now and then, so I did not say this or pressure in any way, and even mentioned a couple of times that if the car cannot make it, we can abort. Time is important, and so is common sense.

We could come back the next day with a better ride. The guides wanted to press on, so the driver got in the backseat and the main guide became the driver and he did well.

Somehow we made it to the village.

The village elders crowded in and we began.

As the day rolled on the clouds rolled in and soon the winds picked up and I thought that we might need to overnight in the village. If the rain was too hard that would be the only wise choice.

As we stepped into the car to test the road, the villagers sharply warned that we should not leave the village, and that we should stay with them in the village.

But the rain was not too bad and we thought it might be possible. They strongly warned to stay with them.

So we negotiated to hire some villagers and a truck with a rope and some wood. The truck would drive ahead of us in case we got stuck. The villagers thought that might work and wished us luck.

Earlier in the day I had asked a village elder to come along with us for the next day’s research in another village. He had agreed.

The elder would not have continued with us if he thought the truck idea would not work. His name is Mawlawi Ali.

Mawlawi Ali speaks and writes Urdu due to his Islamic school studies, and also Bengali which is the language of the village, and Myanmar, the language of the country.

We had a full car: driver in the backseat along with the local guide, and Mawlawi Ali, while the country guide was driving, with me in the passenger seat.

And the villagers were right. They normally are about their environment. The car had difficulty from the first ten feet. It was difficult even to drive from the village, but the elder thought we could do it, so my confidence was higher.

He runs the village generator at the mosque. A thin wire runs around the village, with some families having up to three lights. (I did not check all the details: this is what I was told in the village.) The charge is about $3 per month to run a light, and this money runs the mosque. So a family can have an electric light for $3 month.

In 1945, Japanese had collected about 600 villagers in the mosque and a nearby building, and then murdered nearly all of them with bayonets, tossing their bodies in the village wells. The wells are still there with their remains.

The British also attacked villages that were loyal to Japanese, but since the allies won the war, we were not on trial.

The Japanese kidnapped the stepmother of the village elder who was driving with us, Mawlawi Ali, and she vanished along with other women they had taken.

Ali got clues that she was in Thailand and went there twice, 1978 and 1983, but never found her.

As for the road, there were different sorts of surface. The red mud was slimy-slippery and difficult, and when we saw black soil ahead, I thought good, the black will be better. But it wasn’t.

Several times the car veered almost out of control even though we were going slower than walking speed, and several times some of us got out to walk just in case the car went over a dangerous side. Someone had to be okay to rescue the driver.

We came to lighter soil, which was just as bad.

We got stuck twenty times -- at least. Sometimes just pushing by hand got us out, other times we had to use the truck and rope, but then even the truck got stuck several times, and we needed the wood.

The ground was so slippery that we had to be careful walking. At least one man fell, causing the others to burst into laughter.

We were having problems with modern vehicles but the farmers with oxcarts and wooden wheels -- like something out of a Bible story -- were plodding along without interruption. (I do not know if there are oxcarts in Bible stories, but the oxcarts remind me of these old stories.)

When the truck and car were attached by the rope, it was possible that the truck might go over a side and take the car with it. The fall would not be far, but in some places it could be serious and possibly lethal.

Night fell.

The drizzle continued, and as the men worked the rope and car, I walked ahead in the darkness to a village I could barely see.

I had seen a twinkle of light up there and wanted to see what sort of people lived there. I came to a Karen (?) village and the people were friendly, but appeared confused as to why a white man was walking through their village at night, alone. My two lights were in the car so I was really coming in from the dark so to speak.

Even with the drizzle of rain, some moonlight was starting to peak through.

A village man came up in the darkness – lights from the truck a couple hundred meters back gave us some light, and the villagers had some lamps.

The village man wai’d almost like Thai’s, and his greeting sounded vaguely Thai but was not Thai. Burmese will wai, so maybe he was Burmese.

We tried to talk, but if he spoke a word of English it was not showing. I was not sure what language he was speaking. It may have been Karen or Mon or something else.

Numerous languages are spoken just within a short few miles from here. This country is so complex. You drive through a Karen village, into a Mon village, then Bengali, then who knows what. The people look and dress differently.

There are languages and cultures in Myanmar whose names I have never heard. And they come with many religions, again, some of which I probably never heard about. Many of the Karen are Christian.

As the Karen (?) man tried to talk, he made me feel welcome, and village women came closer and were smiling along with the man.

If we managed to get the car and truck completely stuck, we could ask the villagers for a place to sleep and rent some work animals or another truck to pull us out in the morning. (Most likely another truck.)

Clouds began to disappear and the moon brought more light. The stars were very bright and looked closer than normal.

It occurred to me under the stars that if Japanese are trying to cover up their past, they are not doing a good job with the cover up. They are building a road straight to village where a major but obscure atrocity occurred.

The case is famous among military legal experts who use it as case law, and some British military types, but not famous in most circles.

No doubt that after the road is built, this will become an attraction. Twenty wells still contain the remains of about 600 villagers, according to reports and locals.

Japanese are trying to get attention from people like me who will tell the good, bad, and the ugly no matter what, knowing that I will find things like this slippery road to this tragedy, that I never knew about before, and no doubt many of my readers never heard of Kalagong village and the massacre and abduction of about 15 women. (There is some variance in the reporting on whether it is 12, 13, or 15, and I may have found the cause.)

Mawlawi Ali, the village elder with us, said the Japanese will finish the road next year.

He told me that a Japanese journalist had come to tell their story and help them. His name is Tetsuro Usui -- the elder gave me Tetsuro’s wife’s number today and I called her some hours ago but have not reached Tetsuro.

Apparently from Tetsuro, villagers derived the idea of asking Japan to build this road for their village. Before that it was only a trail, they said.

We were on the Japanese road before its completion, and Japanese built numerous small bridges that we were using this day.

The elder Mawlawi Ali told me that he brought the need of a road to the attention of the Japanese Embassy, but then Japan got hit with the tsunami at home. Despite the tsunami, Ali said that Japan approved the idea six months later. The road should be ready in one year, he said.

Bottom line: If you go before the road is completed, bring a 4-wheel drive vehicle.

And Japan is not covering up its history. It is building a road to the graves.


 (Apologies again for the quick post -- much work here, and monitoring Nepal.)









28 comments:

Takeshi said...

お疲れ様です。
昔、日本TVで、カンボジアのある地点からアンコール・ワットまでの道の89kmを人力で舗装する企画がありました。

日本は軍事大国中国にODAをせずに、もっと早く東南アジアのインフラ整備をすべきでした。

もっとも日本は戦時中からずっとインフラ整備しまくってましたがね…。
インフラ整備が趣味なんですよ。

note nonet said...

 日本軍としても日本人としても、考えられない仕業です。
 日本軍に成りすました中国軍の仕業である証拠は注意深く探せば、きっと見つかる筈です!

守屋秀明 said...

Hello Mr. Yon

I read an article about Burma and something came to my mind.
You wrote over 600 dead bodies are still in the wells. I wonder why the people of the villedge did not retrieve them and bury them. Don't they have a custom to bury dead body?
Wells are important life infrastracture, aren't they?
Did they use them even the dead bodies in wells?

note nonet said...

①まずい事をした時、日本人の仕業に見せかけるのは、中国人と韓国人の常套手段である。
②今日では、中国人や韓国人自身による証言もあるし、日本人によっても様々な物的証拠が示されています。

松井秀幸 said...

皆さん、書き込みありがとうございます。管理人さん、写真付きで早速のアップありがとうございます。さっそく4つもコメントいただき反響の早さに嬉しくなりました。
私も皆さんと同じく私たちの先人がこのような残虐なことをしたとはにわかに信じられません。
私は支那戦線では確実に成り済まし日本兵が悪さをしたと確信していますから(悪さの全てがそうではないでしょうが)、ビルマでもあったのではないかと疑っています。中国の抗日劇で日本兵が発する典型的なセリフに、バカヤロウ、ミシミシ、があります。ミシミシとは飯飯のことと思われますが、どうしてメシメシとちゃんと発音しないかと邪推すれば、成り済まし日本兵がミシミシと本当に言っていたので、メシメシと正確に発音すれば賢い中国人に成り済ましを疑わせてしまうからだと私は思います。
支那戦線では日本兵に成り済ますのも工夫が要りますが、ビルマでは中華民国人が日本人に成り済まさなくてもビルマ人とは明らかに見た目が違いますから、見ただけで日本人だと推測します。ビルマの中国国境近くに住むコーカン族はビルマ国籍にも拘わらず漢族の一系統だと言われ見た目は日本人とほとんど同じですから、コーカン族を使った可能性もあると思います。
直後にマイケル氏が発表した文に、あと2つ、長い記事があります。それも近々翻訳して皆様に届けようと思います。
改めていつも見てくださりありがとうございます。

Moguro Fukuzo said...

Mr. Yon:

I do not mind whatever you write in your book because I believe in your ability to view history objectively. I also believe you consider finger-pointing contest is useless.

However, please look at the following photo and keep in mind that the tragedy of a war is not caused by the unilateral actions of the loser of the war.

http://www.howitzer.jp/topics/page08.html

Why did Japan fight a war in Burma? It was because the U.S. and Britain aided Chiang Kai-suk’s KMT forces through there. Burma had an airfield base for Flying Tigers. WWII in Asia was a proxy war quite like a novel of the “Three Kingdom.”

Military Sponsor Proxy
Soviet Union Mao’s Communist Regime in Yan-an 延安
U.S. and Britain Chiang Kai-suk’s KMT forces in Chong-qing 重慶
Japan Wang Zhaoming’s Nanking Government 南京


“Freedom Betrayed” by Herbert Hoover (former president of the U.S) is highly recommended for everyone to read for more understanding of the war.

Anonymous said...

>>松井さま
翻訳ありがとうございます。
当方も中国の主張は捏造・誇張と考えるものですし、戦犯法廷については多くの問題が指摘されているのは認識しておりますが…本件は Yon 氏が言及されたビルマの法廷でも事実関係については争われていません(国際法における「報復条項」が適用出来るかは争点となった)。
以前のアイリス・チャンの記事のコメント:
> 『BC級戦犯裁判にみるビルマ・カラゴン村事件』 岩根承成、2007年(共愛学園前橋国際大学論集 第7号)
> “The Kalagon Affair in Class B or C War Crimes Court 215 Regt of Takasaki judged for its crimes”, 2007 by Tsugunari Iwane
> http://www.kyoai.ac.jp/college/ronshuu/no-07/iwane.pdf#page=41

別件ですが参考:
アンダマン島(インド)の日本占領における事例
The Cases in Japanese Occupation of the Andaman Islands.
こちらも島民がスパイ容疑で「虐殺」されたことが知られていますが「慰安所」は「それなりに」慎重の措置が取られた模様。

>  1. Individual Murders
>  2. Spy Cases
>  3. Women recruited for comfort houses
>  4. Mass Deportation and Murders

“Japanese Occupation of Andamans 1942-1945 : A Promise of Freedom or Betrayal”
by Dr. Deepshikha Salooja, Senior Research Assistant, Nehru Memorial Museum and Library
http://www.inter-disciplinary.net/at-the-interface/wp-content/uploads/2014/05/saloojamonpaper.pdf

yositune said...

1945年はインパール作戦が失敗に終わり、ビルマ戦線は崩壊状態で敗走撤退の状況だった。
そのなかでの事件だと思うが、日本軍が教育し日本軍の先兵としてビルマに帰還し、独立を宣言しビルマ独立政府を樹立したアウンサン将軍を筆頭に、戦後のビルマ独立を維持する為に日本を裏切り英国と交渉し、日本軍への敵対行動を起こした時期ですね。
日本軍としては飼い犬にてを噛まれた。
ビルマ軍は日本軍が作り教育した軍隊だった。
 英国のビルマ統治は英国の下僕としてのインド人と地元のキリスト教徒のカレン族を手先として支配していた。
これは今に続く分割統治の悲劇を生むことになった。
日本軍も英軍も虐殺事件を起こした可能性は否定できないだろうね。
ただ、当時の訴追記録が無いのはなぜだろう。

Anonymous said...

慰安婦の「強制連行」をとらえた写真! 元日本軍兵士が撮影・・・「軍部関与」を証明か=韓国華字メディア

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150512-00000126-scn-kr.view-000

以前の私は、こういうニュースをすぐ信じていましたが、もう発信元が韓国・中国であれば、最初から疑うようになりました。推理小説やパズルのように、嘘はどこなのか考えるのって面白いです。この写真はどうでしょうか。

仮に事実であっても、日本軍の命令だとは証明することはできないと思います。

731部隊のことも、森村誠一氏の小説のせいで、事実になっていったことを思うと悲しいです。

Moguro Fukuzo said...

ヨン氏が、この件について真実を追い求め、歴史の1ページとして記録を残そうとする限り、我々は何も不平を述べたつる立場にはないものと思う。取材と発表の自由は、誰にでも許されている。

しかし、自分が生まれるはるか以前の出来事をほじくり返して、日本人はこれをやった、あれをやったと、いったい、いつまで我々は歴史の桎梏に繋がれなければならないのか。我々が、ほとほと、うんざりしていることも事実である。

こうしたことは、私が物心のつく1960年代から今日まで、半世紀以上も続いている。そして、その糾弾の理由のなかには、完全なウソさえも存在する。日本人に生まれたその瞬間から、我々は残虐侵略民族の焼印を額に刻まれ、歴史の十字架に掛けられなければならないかのようである。

その半世紀の間、アメリカは何をやったか。ベトナムで無差別爆撃を行い、村々を焼き払い、ナパーム弾で人々を焼き殺した。これが戦争犯罪でなくて何だ!

そもそも、アメリカ人は、そんなに偉いのか。奴隷制度は約2世紀の間続いた。アフリカ大陸で奴隷狩りを行い、奴隷船で大西洋を渡り、綿花畑で朝から晩までこき使い、市場でお父さんがいくら、お母さんがいくら、子供がいくらと売っていたではないか。

インディアン絶滅の歴史も、知る人ぞ知る、極めて残酷なものだ。フロリダに居住していた農耕インディアンを、ミシシッピ河以西の半砂漠に強制移住させ、結果として絶滅寸前に追いやったtrail of tearsの話を知る日本人は少ないと思われる。

この件の取り上げ方しだいでは、我々はヨン氏とも袂を分かつしかなかろう。そう思うと残念でならない。

松井秀幸 said...

>Anonymous Anonymous 様

お示しくださいました以下の資料を1~2時間ほどかけて読みました。

『BC級戦犯裁判にみるビルマ・カラゴン村事件』 岩根承成

印象として前半は資料に則って淡々と書いてあり、後半は証言などを多用して自分の言いたいことに近づけていると感じました。中国大陸でのいはゆる三光作戦をそのままビルマでやった云々、という下りは特にそう感じました。
ただ、前半の軍事裁判での叙述に嘘が無いとすれば、一部が敵と内通して利敵行為を働いたカラゴン村住人に対して、戦犯とされた軍人たちも報復の為に残虐に殺したということを認めていた訳で、マイケル氏の報告は至極真っ当だと感じました。
ただ、日本兵に成り済まして悪さをしたりすることは、一定程度あったでしょう。今でも途上国では天災があれば犯罪が多発するのと同じように。

有益な資料をソース付きでお示しいただきありがとうございました。マイケル氏は日本語は全くできませんので、英語版&英語資料なら、時間があれば見てくださるかもしれませんね。
マイケル氏はとても多忙ですから、私も重要な内容以外はメールしないようにしています。(返事が来ないことも多いです。)いくらか寄付をして、それに添付できるメールに皆様の思いを書けば、マイケル氏が見てくださる可能性がずっと高いでしょう。
あといくつか、この事件についてマイケル氏のレポートがあり、近々訳しますから、そちらもご覧ください。

松井秀幸 said...

Moguro Fukuzo様

いつもありがとうございます。私はこの英文を翻訳した松井と申します。お考えを読ませていただきました。

私がマイケル氏のレポートから感じるのは、日本が悪かったという考えに凝り固まっている、マイケル氏の主な読者であるアメリカ人始め英語圏の人たちに、日本が悪いことをした事実はありますが、決して中韓が情報戦の一環としてプロパガンダしているような一方的なものではない、と読者のフェアであろうとする心に訴えかけるものであるのではないかというものです。

マイケル氏のレポートの随所にある、日本軍による悪事ははっきり糾弾しつつも、一方に偏っている読者に、より公平な目を持つように発信していると思うのです。

ぜひ長い目で見て応援していただけたらと思います。

Anonymous said...

まぁ日本軍は悪事を目的とした軍事行動をしたわけではないことを淡々と証明してればよい。

ヒトラー、スターリン、毛沢東、ルーズベルトのように大量殺人を図り命令し実行してるのとは大きく違う。

Anonymous said...

元も子もないことを言ってしまえば、米の対日観(そして日本の自虐史観)は基本的に米の原爆投下を正当化することを軸に組み立てられているので、ヨン氏がいくらフェアで詳細なレポートを続けたとしても、原爆投下に対する見方が変わらない限り、米世論の対日悪玉観が変わることはないと思う。

最近の世論調査でも米国民の半数以上は相変わらず原爆投下を正当だったと考えているようだし、ヨン氏のフェイスブックで日本に関する投稿への反応を見ていても、正直、日本人の親米感情を削ぐような内容のものが多い。

日本人側からすれば、反米感情の種は何も原爆だけでなく、主なものだけでも東京大空襲、東京裁判、GHQの占領政策など、いくらでもある。アメリカ人がこれを被害者の立場に立って、今もってどういう影響を及ぼし続けているのか理解するのは、ほぼ不可能だと思う。

日本は悪玉扱いされることにも、米の独善に付き合わされることにも、かなりウンザリしている。ヨン氏が危惧するように、今後は、日本世論のアメリカ離れは加速するような気がする。

natsumi said...

日本人が残虐なことをすることがないと決めつけ、中国や半島の人の仕業と断言する人が多いのは危険ではないでしょうか?

結果あり論では、どこぞの国と同じですよ。
また、中国や半島の人だとしても、監督責任は当時日本政府にあったのですから、我々日本人は、ビルマで犯した罪を反省して世界に謝罪しつづけなくてはいけません。

Anonymous said...


natsumiさん、

脳を洗って覚醒してから出直してくださいね。
第一歩としてこのブログでもお読みくださいませ。「在日韓国人から見た韓国の新聞」あなたの妄想と現実の間には違いがあることを教えてくれます。

http://blog.livedoor.jp/kanedashoji70/

Moguro Fukuzo said...

先の大戦について、僕が今抱いている感情↓をHPにしてみました。

おやまゆうえんち
http://www.howitzer.jp/topics/oyama.html

yositune said...

natsumi さん
当時の状況はヨン様が言うように日英とも戦時交際法違反の虐殺をしてるんですよ。
開戦当初の進撃状態でも、斥候などに出て捕虜となった日本兵はいるんですよ。
英軍は撤退時に処刑していますよ。
ビルマの住民に対しても同様だったと思う。

ビルマで敗走中の日本軍は、今までも味方だと思っていたビルマ軍に裏切られ、英軍に内通でもされたら包囲殲滅される危険があった。(殲滅された事例が多くあります。)
自分達の命と敵性国民の保護を天秤に賭けるなら、自分達の命を大事と考えてもしかたがなかった状況でしょう。

ただ、当時の日本軍がビルマを独立させなったら、今の独立国ビルマは無い。

アウンサン将軍は海南島で日本軍情報部により訓練された工作員でした。

現在の人権状況と価値観で過去の人々を裁く
権利は私たちにはありません。
まして今を生きてる自分が犯してもいない罪を認め謝罪するのは偽善いがいのなにものでもありません。
その裏には謝罪をしない日本人を見下げる汚らしい心根が見え隠れします。

今、私たちは過去の歴史の事実を確認し、それを明日への糧として生かす(教訓として)ことだと思います。

Anonymous said...

毎度おなじみ、中国共産党工作員で、捏造妄言担当のnatsumiさんです。

Moguro Fukuzo said...

朝鮮人や支那工作員は、性格歪んでますよねー。

朝鮮人は人ではない。怨霊です。韓国も国ではない。反日カルト教団の本部であり巨大な精神病院です。38度戦と海で囲んで、なかの怨霊たちを閉じこめておくことが吉。

北:栄養失調国 南:統合失調国 と国の名を改めたほうがいい。南鮮は怨霊国、悪漢国、スッカラ缶国もいいでしょう。

支那人も人ではない。人の皮を被ったピラニアです。中国も国ではない。半魚人の群れが住む巨大な腐海です。餌となる動物が連中の生息する河に落ちると、たちまち骨だけにしてしまう。食うものがなくなると、お互いに共食いを始める。それが支那の歴史ですわな。

支那経済はもう終わりです。でも、経済が完全に崩壊しても、共食いで生き残るから支那は大丈夫。ほうーっておきましょう。

21世紀、日本国の大方針は、これでいきましょう。
ヽ( ゚∀゚)ノアッヒャー な方には、ヽ(゚∀゚ )ノアッヒャーな対応で。

Anonymous said...

Usui Tetsurouについて
>彼は非常に慎み深いようで自分の手柄にすることを拒否したが、私はいずれにしろ彼に祝福の言葉をかけた

この人、ジャーナリストと言ってるけど信頼できる人物なのでしょうか。ヨン氏のコメント欄で、彼は共産党員で日本の戦争犯罪を摘発するグループのメンバーとあり、左翼系であるのは間違いありません。
「慎み深いのか」それとも表面に出るのを避けようとしているのか.......。ヨン氏の調査ではからずも自分の名前が表に出た事に困惑している可能性もあります。

松井秀幸(訳者) said...

皆さん、いろいろ情報ありがとうございます。碓井哲郎氏については、マイケル氏が記事の中にローマ字で書いていたものを、私がネットでいろいろ調べて、漢字名を見つけて訳中に書いたものです。あるページで碓井氏のメルアドがあったので、そこにメールして確認しようとしましたが、エラーが返ってkました。いろいろな情報と符号して99.9%正しいと思います。他に情報があればソース付きでぜひ書きこんでいただきたいと思います。有意義だと思うものは英訳してマイケル氏にメールするつもりです。

Moguro Fukuzo said...

>碓井哲郎

こんなところに顔を出す輩だから、どうせロクなもんじゃないですよ。下の方に戸塚悦郎の名前も見えます。

http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/26e0b41edfbd744ad5ed40847a9e2c8f

松井秀幸 said...

Moguro Fukuzo様

ご指摘のURLは私が既に見て、日本語が分からないマイケル氏にメールの中で3行程度で説明しておきました。
ありがとうございました。

Moguro Fukuzo said...

(再掲)
米軍が日本本土占領にあたって、神奈川県内で犯した犯罪の数々は「黒い春」(五島勉 倒語社)にまとめられています。これは下記サイトで読めます。皆様、ぜひこれを読んで、我々の先祖が潜り抜けなければならなかった苦難を偲びましょう。

http://www.howitzer.jp/topics/index2.html

松井秀幸 said...

Moguro Fukuzo様

先ほどお示しのURLを確認しましたが、いはゆる南京事件のもののようです。

Moguro Fukuzo said...

南京戦史の次に掲げてあります

松井秀幸 said...

Moguro Fukuzo様

すみません、下の方にスクロールすることに気付きませんでした。

さきほどざっとご紹介していただいたページを見たのですが、英語でも分かりやすく写真付きでまとめられており、これは素晴らしいページだと思いますので、メールでマイケル氏にも紹介しようと思います。
マイケル氏がざっと読んで素晴らしいと感じたら、FBで紹介してくださるかもしれません。Moguro様自身がすばらしいページを作っておられたことを知りませんでした。お疲れ様でした&これからもよろしくお願いします。